総じて早熟だった
なにせ精通が小4頭でまだ9歳の時だった。下の毛も小5の頃には生え揃っていた。地頭が良い上に早熟なのだから手に負えない。
中学受験をすることに関しては異存はなかった。話の通じない同級生には退屈していたので、話の通じる人たちが居る世界に行きたかったからだ。
小4から通いだした日能研町田校でも僕は引き続き抜きん出た成績を修めることになる。
毎週末の全国テストでは小4~小5の間は常時全国50位以内で偏差値75以上をキープしており全国トップテンも珍しくなかった。これは日能研町田校だけだとほぼ常時トップを維持できる成績だった。
全国トップテンに入ると表彰状と副賞として鉛筆1ダースをもらえた。表彰者の名前は校舎に貼り出されるのだが、そこには僕の名前ばかり貼り出されていた。家には鉛筆が溢れかえった。
ちなみに全国1位には一度もなれなかった。2位を2回取ったのみである。常時1位争いを繰り広げている化物が二人いたからだ。その二人の年間偏差値の平均は80を超えていた。その内の一人に会う機会があったが、確かに元々ものすごく賢く、親も勉強させていた。それだけ抜きん出ていた二人の名前を今ググっても、本人らしき情報は出てこない。結局そういうことなのだ。
塾通いは良い経験になった。なにせ、学区(=閉鎖的な団地)から出て、電車に乗って大手を振って街に出ることがでるのである。ファストフードで買い食いしたり、古本屋で立ち読みしたり、マンガを買ったりできるようになったのだ。
この頃からマンガをかなり読むようになった。小遣いや夕食代で持たされた500円玉のほとんどはマンガに費やされた。書籍は立ち読みできたが、マンガは古本屋でもシュリンクがかかっていたから買うしか無かった。そして読み終わったマンガを売って、また新しいマンガを買った。
同時期に深夜ラジオを覚え、夜更かしが多くなった。町田でマンガセットを買い込んできて、深夜ラジオを聞いた。朝起きられなくなり、仮病で学校をサボりがちになった。小学校は嫌いではなかったし、特に小5,6年次の先生はすごく良い先生だったのだが、必ずしも毎日行く必要性を感じなくなっていたのもある。
学校を休んだ日は当然日能研も行かず、読みたい本やマンガを読んでいた。それでも成績は落ちなかった。次第に「あいつは小学校を休んで家で勉強している」「母親が休ませて勉強させている」という噂が立つようになる。母親には非常に迷惑をかけた。確かに今から考えるとそれくらいしないと取れなくらいの非常識な成績を維持していたのである。
そういう意見に対しては「僕は君らと違って特別だから勉強しなくても成績が良いんだ」となどと言って反論していた。そういうことを言っているうちに「勉強をしないでも出来る自分」にアイデンティティを見出すようになる。自分は特別だと勘違いし、意地でも勉強しなくなっていった。
「花の慶次」で主人公の前田慶次が「虎が鍛錬などするかね」とか言っているのに影響を受けまくり、自分の中での論理補強にしてしまったなんてのもある。なんだかんだで子供である。ただ、この辺の勘違いが中高時代の人生に大きな影響を及ぼすことになるのである。
勉強していない自慢が痛いことを承知の上で言うが、実際問題とにかく勉強していなかった。同じ部屋だった妹に「勉強をしているところを見たことがない」と言われるのだから相当だ。
ただ、日能研の勉強は楽しかった。学校の授業と違って新しいことを知ることできたからだ。教科書は隅々まで読んだし、たまにサボって町田の街をぶらつくこともあったが、出席したときは日能研の講義は真面目に聞いていた。
つまり「机にかじり付いて勉強」みたいなことはしていなかったが、持ち前の好奇心を発揮しまくって、あらゆるところから知識は吸収していたのである。
日能研町田校の特進クラスの子たちは、勉強バカもいたが、賢い子も多く話が通じるのも楽しかった。
特進クラスの子の家に遊びに誘われることも多かった。そういう家は比較的裕福な家ばかりだったので、遊びに行くのが楽しかった。美味しいお菓子を食べられたし、ゲームもできた。
当時は無邪気に楽しんでいたが、今から思うとあれは先方の親にしてみれば偵察だったのだろう。家のことや勉強のスケジュールとかを色々質問攻めにされていた。まあ、特進クラスの中でもずば抜けた成績の子がどんな勉強をしているかは真剣な親なら気になるところではあるだろう。
実際のところ両親は馬鹿みたいに放任だった。これは本当にありがたいことだし感謝している。僕も自分の子供に勉強させるみたいなことは絶対しないと思う。